資料

置いときます

石原八景の資料

石原八景の詩碑を 2017年の6/16と17  仙石くんと巡りました

(もともと石原前堤でホタルを見るために渋川にいった)

そして2018/11/11(日)に仙石くんが「文化しぶかわ」第12号を手に入れ、それにより足りなかった資料が埋まったこともあり、やりかけだった記事を仕上げてみました

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文化しぶかわ12号によると

  • 昭和61年に石原の大山祇神社に調査が入り、一枚の奉納額が発見された

  • さまざまな分野の専門家がこの額を調査研究し、石原の景色を詠んだ漢詩であると判明

  • 北毛・渋川地区で幕末から明治にかけて郷学に努めた堀口蘭園の門下生が、石原の四季折々の自然を漢詩に託し、明治19年大山祇神社に奉納したものだった

  • 中村倫司さんによると八景詩が発見されたのは偶然にも奉納されてからちょうど100年後とのこと

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石原八景の地図看板は市役所の裏門近く、諏訪神社にあります

石原前堤と後堤の大きさもあべこべだし、ナンバリングもなぜこの順番なのかわからないものになってます

そして渋川あるあるなんですが、西が上で描かれてます

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よく見たらこの地図に僕の探していた「金沢川」の表記もありました

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文化しぶかわに載っているこの地図の方がナンバリングもわかりやすく、ちゃんと北が上になってるので、こちらの数字をもとに書きます

①「城峯蜀魂」

②「金渓蛍火」

③「村社櫻花」

④「琴山朝曦」

⑤「二井小雨」

⑥「村塘望月」

⑦「白山瀑布」

⑧「坊川暮色」

 

 

まず①「城峯蜀魂」(この詩碑の下に地図看板もある)

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城峯蜀魂

城峯蜀魂 石坂遊碁 

 

城峯々下鎮柴荊  

唑思遠人眠未成 

夜半出門残月白 

満山啼血杜鵑聲 

 

城峯々下 鎮なる柴荊 じょうほうほうか しずかなるさいけい

唑して遠人を思えば 眠未だ成ず ざしてえんじんをおもえば ねむりいまだならず

夜半門を出づれば 残月白し やはんもんをいづれば ざんげつしろし

満山の啼血杜鵑の聲 まんざんのていけつとけんのこえ

 

これがまず 諏訪神社の階段をのぼったところにあります

 

荊(けい)・成(せい)・聲(せい)で韻を踏んでいる

 

峯 山の高いところ

蜀魂(しょっこん): 《蜀の望帝の魂が化してこの鳥になったという伝説から》ホトトギスの別名。蜀魄(しょくはく)。蜀鳥

柴荊(さいけい):①しばやいばらなどの雑木 ②あばらや

遠人(えんじん):遠人(とおひと) 遠方の人

夜半(やはん):夜中 

残月(ざんげつ):明け方まで空に残っている月。有明の月。のこんの月

満山(まんざん):山全体

啼血杜鵑(ていけつとけん):血を吐くほどにけたたましく鳴くホトトギス

 

文化しぶかわより

《詩の意味》

城峯(諏訪神社)の森の下にある静かなあばら屋の一室に座り、遠くに住む人を思うと眠ることができない。夜中に外に出ると夜明けの月が淡く白い。すると、森の中から血を吐くようなホトトギスの声が聞こえた。

《今の景色》

諏訪大明神の鳥居をくぐり30余段の石段を上がれば城峯神社御仮屋の跡があります。戦の神様で、砲丸投げの玉のようなものが祀ってあるそうです。境内には、梅や枝垂れ桜やモミジの木が植えられ紅葉がきれいです。街並みのむこうに赤城山が眺望できます。

城峯神社 (しろみねじんじゃ?)

御仮屋 (みかりや?)  

でいいのだろうか

 

 

このあと石原後堤と前堤に行ったのですが、翌日の明るい写真を使いたいので、とりあえず③「村社櫻花」大山祇神社から書きます

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村社櫻花

村社櫻花 高橋正明 

 

大山社内皆櫻樹 

万朶遍開嬌社新 

況是石原名所地 

東西南北賞花人 

 

村社の櫻花 そんしゃのおうか

大山社内 皆櫻樹 おおやましゃだい みなおうじゅ

万朶遍く開き  嬌社新なり ばんだあまねくひらき  きょうしゃあらたなり

況や是れ 石原名所の地 いわんやこれ いしはらめいしょのち

東西南北 花を賞する人 とうざいなんぼく はなをしょうするひと

 

万朶[ばんだ]  〔朶は垂れ下がった枝のこと〕→(花のついた)たくさんの枝のこと

新(しん)・人(じん)で韻を踏んでいる

《詩の意味》

大山祇神社の境内の木は、皆桜である。全ての枝の花が開き、美しく見える神社が新鮮だ。この神社は石原の名所であるから、東西南北の各方面から神社の桜を褒めに来ている。

《今の景色》

大山祇神社は、山を持つ神とされ山林拓殖、土木農などをつかさどる神です。石鳥居をくぐり巨大な石灯籠を左右に見ながら90余段の石段を上れば、杉の巨木の中に神殿が鎮座しています。神殿は板葺き総欅で、拝殿は昭和27年に増築されました。また備前三郎国宗の銘刀があり神刀とされています。

参道には桜の木が多くあり花見で賑わったということですが、今は根本に残った小枝一本のみです。大欅と共に小杉が数本、他に大石、祭龍祀、石祀、盥水盤(かんすいばん)、道祖神などがあり、木々に囲まれ苔が生えた境内は威厳に満ち杉林をぬける風と木洩れ日が気持ちよいです。自然を敬い自然の中で生きた人たちの深さを感じました。

総欅 そうけやき?

祭龍祀 さいりゅうし?

石祠 せきし?

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石原の大山祇神社

 

大山祇神社の石段を登ると、赤ちゃんの足跡のようなものがあり、これを神足石といいます(僕は「じんそくいし」と呼んでます)

 

『渋川・北群馬の伝説』(中村倫司著)によると

神足石 石原の大山祇神社の石段の上から二段目の段に、子供の足跡がついています。神様が遊びに行った時の足跡だといいます。村人は、その足跡をよけて踏まないようにしています。

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神足石と思われるへこみ

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神足石と書かれている

 

そのまま大山祇神社の上を登っていくと④「琴山朝曦」 琴平神社

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琴山朝曦

琴山朝曦 伊藤祐隆

 

琴山々上望無窮

忽見朝曦射眼紅

北野南林鶯恰々

百花村落靄濛々

 

琴山の朝曦 きんざんのちょうぎ

琴山々上 望み窮まり無し きんざんさんじょう のぞみきわまりなし

忽ち見る朝曦 眼を射って紅なり たちまちみるちょうぎ まなこをいってくれないなり

北野南林 鶯恰々 ほくやなんりん うぐいすこうこう

百花の村落 靄濛々たり ひゃっかのそんらく もやもうもうたり

 

紅(こう)・ 恰(こう)・ 濛(もう)で韻を踏んでいる

 

朝曦 ちょうぎ 朝の日の光

 

文化しぶかわより

《詩の意味》

琴平山に登り、見渡す景色には限りが無い。今、朝日が昇ろうとして我が眼を深紅の光が差している。北に広がる野原や南の林では、ウグイスが鳴いている。多くの草花が咲く集落には、朝もやが立ちこめている。

《今の景色》

石原八景で最も高台にあるのが琴平神社です。大山祇神社から通じる道がありますが、今は神社の裏側まで車で上ることができます。裏側から道を下るとモミジの枝が尾根を包みこむように琴平神社が見えてきます。社前の昔通ったという直線的な男道と、くねった女道は、今は通れず、大木が生い茂って景色は全く見えません。境内の親子松は枯れ朽ちた太い根本だけが残り、そばに杜鵑草(ほととぎすそう)が咲いてました。

毎年一月に祭典が行われ、くじ引きや甘酒がふるまわれ賑わうそうです。

琴平神社はなんというか、さびれていて人の気配もなく、規模も小さい

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親子松

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由来碑

由来も書かれているが読みづらい

 

漢字表記は

案内図では金刀比羅宮

住宅地図では金刀比羅神社

現地の札には琴平神社

と書かれている

 

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琴平神社

この建物の裏にブルーシートにくるまれた長い棒状のものがあり、たぶん大山祇神社の祭につかうノボリだと予想

 

⑤「二井小雨」 石原後堤

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二井小雨

二井小雨 小野澤信□ 

圯橋風暖巻春衣

渓北渓南草較肥

二井寺辺一邨雨

千村萬落百花馡

 

二井の小雨 にせいのしょうう 

圯橋風暖かく  春衣を巻き いきょうかぜあたたかく しゅんいをまき

渓北渓南 草肥を較う けいほくけいなん くさひをきそう

二井の寺辺 一邨の雨 にせいのじへん いっそんのあめ

千村萬落 百花馡し せんそんばんらく ひゃっかかんばし

 

衣(い)・肥(ひ)・馡(ひ)で韻を踏んでるんだと思うけど、馡の日本語での発音はよくわからなかった

 

名前の最後の一文字は

「稷」「穆」「稂」「稪」「稉」

あたりだろうか

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この最後の漢字が発見できなかった

 

文化しぶかわより

《詩の意味》

土の橋に吹く風は暖かく、春の衣装の裾を軽く吹く。谷の北や南に生える草は、大きさを競ってるようだ。前堤と後堤の周りの集落に雨が降り、咲く花々の香りが芳しい。

《今の景色》

後堤は御林沢の水を堰止めた用水池です。深さ5㍍余りで底に「かっぱ石」と呼ばれる大石が横たわっています。

木々に囲まれ静かな中に土橋下を流れる川音が心地よく響き、山が連なる先には水沢山が見えます。水面には数羽の鴨が気持ちよさそうに泳いでいました。昔は水泳やスケートをしたそうです。堤沿いには野菊が咲き、土手下には田畑が広がり遠く赤城山の景観を楽しめます。

 

僕はこの「御林沢」というのが、どこを差してるのか、なんと読むのか不明なままです

もし「ごりんざわ」だったら「ごりんだいら」と関係あるのでは? と気になってます

上流にある川にかかってる群馬用水が「金沢川水路橋」なので、上流は金沢川だと思うのだけど

 

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後堤にあった資料 「二井小雨」も書かれている

 

 

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碑もありました

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石原後堤

後堤はこういう感じのでかい池というか貯水池です

ところで後堤の読みがわからず、うしろつつみ、こうてい、などで呼んでます

 

前堤も、まえつつみ、ぜんてい、などで呼んでます

 

⑥「村塘望月」 石原前堤

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村塘望月

 

村塘望月 高橋正懐

水光月色兩相和

塘面霄々價百斥

點々白鷗碁一局

綿々平浪動成紋

 

村塘月を望む そんとうつきをのぞむ

水光月色 兩ながら相和し すいこうげっしょく ふたつながらあいわし

塘面霄々として 價百斥 とうめんしょうしょうとして あたいひゃっきん

點々たる白鷗 碁一局 てんてんたるはくおう ごいっきょく

綿々たる平浪 動きて紋を成す めんめんたるへいろう うごきてあやをなす

 

文化しぶかわより

《詩の意味》

水面に映る光と月の色が調和して、堤防一帯がかすむ眺めは百斥の値打ちがある。水面のあちこちに浮かぶ白い鷗の眺めは碁の一局のようだ。絶えない穏やかな波は、美しい模様を作り出している。

《今の景色》

前堤は唐沢川より用水を注入しています。桜と木棚で囲まれ、赤白の鯉が泳ぎ幾重にも広がる波紋はとても美しいです。運がよければ「カワセミ」も見られるそうです。

季節により水量は変わりますが春の桜や若葉、夏の夜に輝く蛍、裾野まで見える赤城山など、四季折々の眺望は美しく、住人や近くの保育園児達の憩いの場となっています。

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桜の季節は一段と素晴らしい眺め

塘(とう)は堤のことらしい

百斥は百斤の間違いだろうか

 

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石原前堤

この写真を撮った後ろのあたりで蛍が見れます (2017616日には見れました)

 

渋川駅の近くに「前金沢川」というのが流れてるんですが、この「前堤」と関係あるのでは? と思ってます

 

この写真の奥に行きます

右のほうからぐるっと遠回りして、すこし森の中に入ったところに⑦「白山瀑布」の碑があります

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白山瀑布

 

 白山瀑布  後藤基祿

曳杖吟行到白山

鮮々瀑布一渓間

飛流奔下如雷起

此際詩成得意還

 

白山の瀑布 はくざんのばくふ

杖を曳いて吟行し 白山に到る つえをひいてぎんこうし はくざんにいたる

鮮々たる瀑布 一渓の間 せんせんたるばくふ いっけいのま

飛流奔下し 雷の起くるが如し ひりょうほんかし らいのおくるがごとし

此の際詩成り 意を得て還る このさいしなり いをえてかえる

《詩の意味》

杖をついて詩歌を吟じながら白山に着いた。すると前方の谷間に滝が見える。その滝を流れる水の勢いは雷が落ちた音のようだ。この時に詩ができたので、満足して帰った。

《今の景色》

保育園横の杉や雑木の中に入っていくと、白山瀑布の詩碑があり、その先に滝の水が流れていたという凹みが残っています。現在滝はありませんが今でも水が出ているらしく、下方に枯葉の沈んだ小さな池があります。

文化しぶかわだと

「いっけいのま」→いっけいのかん

 

山(さん)・間(かん)・還(かん)で韻を踏んでいる

 

たしかに仙石と行ったとき滝がなくて「滝どこだー?」と思いました

この上流に白山神社というのがあるらしくいつか行ってみたいです

 

石原寺へ移動

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赤城山が見えます

 

この近くにも石原八景のでかい地図がありました

 

このあと⑧「坊川暮色」の石原寺に行ったのですが、詩碑が見当たらず、寺に詳しい人もおらず「どこかに移したそうですよ」くらいの情報しか得られませんでした

 

でも今回「文化しぶかわ」で詩文が見つかったのでそれをそっくり写します

坊川暮色 小淵信義

閑到坊川景最竒

鵞毛片々落花欺

偶然少立吟詩句

將是西山日没時

 

坊川の暮色 ぼうがわのぼしょく

閑かに坊川に到れば 景最も奇なり しずかにぼうがわにいたれば けいもっともきなり

鵞毛片々として 落花を欺く がもうへんぺんとして らっかをあざむく 

偶然少立して 詩句を吟ずれば ぐうぜんしょうりつして しくをぎんずれば

將是れ西山に 日没する時 まさにこれせいざんに ひぼつするとき

《詩の意味》

ゆっくりとあるいて坊川に着くと、雪景色がとても珍しい。ガチョウの羽のように降る雪は、まるで散る花のようだ。たまたま、少し立ち止まって詩句を吟じた。今まさに日が西の山に沈もうとしている。

《今の景色》

渋高線の道路拡張により石原寺も移設、昔は蛍も飛んでいたという川は道路の下で、当時の面影はありません。

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石原寺にあったぼけ除け地蔵尊

奇(き)・欺(ぎ)・時(じ)で韻をふんでる

この詩はどこに雪景色であると書かれているのだろう 

ガチョウの毛が冬の季語なのだろうか

 

あとは②「金渓蛍火」なんですが、これもこの日にはもうなくなっていて、過去に仙石が撮った写真があるので使います

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金渓蛍火

金渓螢火 高橋宗曼 

 

渓畔曳笻繞百回 

飛螢爛々去還来 

無風無月星千點 

對此詩成亦樂哉 

 

金渓の蛍火 きんけいのけいか

渓畔に笻を曳いて 繞ること百回 けいはんにつえをひいて めぐることひゃっかい

飛螢爛々として 去り還来たる ひけいらんらんとして さりまたきたる

風無く月無く 星千點 かぜなくつきなく ほしせんてん

此れに對し詩成り 亦樂しき哉 これにたいししなり またたのしきかな

 

回(かい)・来(らい)・哉(さい)で韻を踏んでいる

《詩の意味》

川のほとりを竹の杖をついて何度も往復していると、美しく光るホタルが行ったり来たりしている。風が吹かず、月も出ていないので、夜空は満天の星が見える。

この夜景を眺めて詩が浮かんだ。これもまた楽しいことだ。

《今の景色》

閑かな自然が広がっていた金沢川は、平成元年の災害関連事業によりコンクリート壁になりました。夜空を飛ぶ蛍が美しかったという面影はありません。現在は場所を移して蛍まつりが行われいます。

金渓とは金沢川のことを指しているようだ

「現在は場所を移して蛍まつりが行われています」の「場所」がこの時訪れた石原前堤だと思います(係の人がいたりしたので)

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もともと詩碑があったのはこのあたりだったと思います

 

 

以上石原八景の資料でした

漫喫でバイトしてたこと

これは「おれの知り合いすげー」自慢とかではなく、こないだ投稿した『アンセムメーカー』と漫喫バイトがどう関連してるか、整理したもの

 

  • ぼくは2010年4月〜 漫画喫茶でバイトをしていたことがあり、だいたい9:45〜16:30勤務だった
  • 2010/3月から働いていた先輩がいて、彼は主に深夜勤務だった
  • お互い勤務時間が重ならず、話す機会も多くはなかった
  • その先輩はボカロ作品を投稿していた
  •  
  • 時間が経つ
  •  
  • 2012/7月  先輩、音楽活動で忙しくなってくる
  • キテ、代わりに日曜深夜も入ることになる
  • 2012/8/15 先輩、かっこいい曲を投稿する
  • キテ、その曲を聴いてかなり衝撃を受ける
  • 同10月ごろ先輩、漫喫をやめる &「綺麗なお店とイイスタッフ!!」というサイン色紙を店に残す
  • ↑たぶんこの辺りで、「キテくんもボカロやったらええよ」みたいにすすめられる
  • キテ、ボカロやろうかなと思い始める
  • 2012/10/28 先輩の曲が100万再生を突破する
  • キテもボカロを始め、何曲か投稿する
  •  
  • 時間が経つ
  •  
  • 2018/4/2 キテ、歌詞に「漫画喫茶の深夜バイトはボーカロイドの〜」などが出てくる『アンセムメーカー』を投稿する

 

こんな感じです

 

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アンセムメーカー - niconico

 

 

 

『アンセムメーカー』

曲を書き、投稿しました

 

ニコニコ動画

 

youtube

youtu.be

 

歌詞です↓


『アンセムメーカー』
漫画喫茶の深夜バイトはボーカロイドのリージョンに
オートメーション書き込んではため息をついている

ほら名曲なんかは書けないよ
はあアンセムメーカーじゃあんめえし
這いつくばっても解けないクイズだ
夜になったら、袋小路の

最終回だ最終回
知力、体力、時の運を
振り絞って ソングライティング
書けたどうにか浮かんだ
夜の鉄塔、日々の残滓、猫の侵入、午前3時

アィドフエドアースガルド
アスファルトの下で
アースクェイクを起こすような
寝返りを打っちゃうぞ

日々想像ばっかで時には勝利に
あずかりたいけど前頭葉
反芻ばっかで心ここにあらず
夜になっても眠れないから

同窓会や最高裁
出口ロストの浮かんだ景色に
苦しんでる苦しんでる
何を愛してここに来たんだろう
犠牲者をたくさん出したのに
楽しいこと思い出せない

恐縮ばっかでひしゃげた背
ハンドル放置で落ちたいよ
何にもわからなくなってしまいたい
リリリ、リーリーリー、リリリ
リリリ、リーリーリー、リリリ

もうちょっと、もうちょっと
せめてあるもの吐き出してから
大失敗でもいいから
たとえば「ここを先途と」
一目散にソングライティング
表層と別離して
創作 like a ヘンリー・ダーガー
胃の中の人ら 喜んだなら
優勝
アンセムメーカーじゃん
王国の
アンセムメーカーじゃん

漫画喫茶の深夜バイトは
アンセムメーカーになれたかにゃ

 

 

 

穴の空いた対の石柱

上郷の大ケヤキと平沢川の間に穴の空いた石柱が2本ある

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2017/6月撮影

 

これはなんなのだろう?なぜ正面にむけて穴が空いてるんだろう?と疑問になった

 

2017/11/18

漫画『ねこむすめ道草日記』のフォトロゲイニングに参加した

ねこむすめ道草日記(16)【電子限定特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

ねこむすめ道草日記(16)【電子限定特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

 

フォトロゲイニングとは

  • 渡された地図を頼りに
  • 指定された場所の写真を
  • 時間内にどれだけ多く撮れるか

を競うゲームだ

 

僕はその「聖地巡礼コース」(簡単な方)で3位になり、賞状とお菓子とサイン入りポスターを頂いた

そこには八幡宮が描かれていたf:id:notata_kite:20180323191501j:image

徳間書店 いけ著 『ねこむすめ道草日記

 

ネットで調べたり、このポスターを見てるうちに

こういう穴の空いた石は、どうも幟(のぼり)などを立てて固定するに使うらしい

とわかってきた

 

たとえば大晦日の若伊香保神社

遠くから幟が見え

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近づいてみるとさっきの石が固定に役立っている

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正月の八幡宮

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羽根つき矢を固定するのに使われている

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渋川八幡宮
https://goo.gl/maps/bjCiLCQR7M32

 

こちらは行幸田の甲波宿禰(かわすくね)神社のだけど、使われていなかった

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2018/1/4 撮影

甲波宿禰神社
https://goo.gl/maps/1Yb6dsTCRR32

 

藤ノ木の道祖神のところでは一本で碑として使われていた

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2017/12/29撮影

「大演習記念」と刻まれている

 

2018/3/18(日)

ツイッター等での友人ろろさん(@loyal_zensyo)が他県から渋川にくる

僕もちょうど渋川にいたので歓迎し、案内して回った

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伊勢屋本店のラーメンを食べ、藍園墓地の大ケヤキを見、市民会館の裏の山道を登ったり、大山祇神社、廃教習所、などを見た後に子育て地蔵に着いた

堂の中を覗くとこんな紙があった

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 上郷にある名所古跡

 

ここを拡大してみると

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上郷町内の幟枠

 

そうか幟枠(のぼりわく)という名前だったのか

 

というわけで

もしあなたが穴の空いた対の石柱をみたら、それは幟枠かもしれません

よく神社の入り口にあります

 

ろろさんも渋川を気に入ってくれたみたいです

 

メモ

写真は撮り忘れたけれど大山祇神社入り口にも幟枠はあり、その上の金刀比羅神社には何か長い2本の棒がブルーシートにくるまれていた

  • 琴平のブルーシートの中身は幟で
  • 祭りの日などそれを下まで運んで
  • 大山祇神社の幟枠にくくりつけるのかもしれない

と思いました

 

資料探してます

かつてあった川の名

2015/8/15(火)

渋川の長塚町にある大谷旅館に泊まる

そこで聞いた話

「いま市役所通りになってるところはむかし川だったんだよ。蟹がよくとれたから蟹沢(カニザワ)って呼んでたかな」

 

その川について調べてみた

 

東京に戻ったあと国立国会図書館1969年の渋川の地図を見る

(S44.3.30発行 著作権所有兼発行者 国土地理院

その地図ではたしかに本来市役所通りがある位置に川があった

 

メモ

  • 渋川が市になったのは1954
  • 市庁舎はかつて真光寺の近くにあったが、1968年に石原に移された

→なので1969の地図では、市役所が石原に描かれてる

  • 1969の地図では、市役所通りの位置に川の記号が描かれている

 ↓

市役所通りがかつて川であったというのは本当らしい

 

この川の名前を調べる

  • 2008年渋川市住宅地図(僕が普段使ってるもの)を見る
  • 町の境目が市役所通りの線とは少しずれてることに気付く→おそらく町割りはむかしあった川を元にしている
  • 町境を上にたどっていくと、ファミマのあたりに川
  • 仙石(友人)にその川の動画で送ってもらったら、結構な水量がある
  • その川を上流へ辿ると石原後堤あたりを通っていると判明
  • さらに上流に「群馬用水金沢水路橋」と書かれている地点がある

この川は「金沢川」なんだなと大体目星がつく

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これは実際に見に行った群馬用水金沢川水路橋

写真手前から奥に群馬用水の水の走る橋がかかっており、その下で右から左へ金沢川(仮)が流れている

 

 いろんな人に聞いてみた

  1. 夢屋書房の店主藤本さん
  2. 「渋川・北群馬の伝説」の著者中村倫司さん
  3. (人伝いだけれど)元市長の登坂秀さん
  4. 群馬用水の職員の方

「金沢川」で間違いないようだが、読みで「カザワ」or「カザワ」とぶれる

 

渋川市誌 第四巻 民俗編』の「 第五節 地名・ことわざ・方言」では地元で古くから呼び習わされていた地名が載っている

  • かつてその川に面していた長塚町や藤ノ木の別名に「金沢(かなざわ)」とある
  • 上ノ原(おそらく大山祇神社金刀比羅宮や石原前堤・後堤のあるあたり)の別名に小金沢(こかなざわ)」とある

これらはどちらもルビ入りで書かれている

「カナザワ」説が有力

 

 カナザワorカネザワのもっと確たる証拠がないか考えていたが、時間がたち、やがてそのテーマについて考えるのもやめた。

 

2017/11/19

この日は入沢の百庚申塔や、並木町と金井の境目を流れる天神沢川を仙石とふたりで巡って、夜になった。

今まで行ったことがなかったけれど、どうも有名らしい寄居町の林家食堂で食事をとる。FGOでは復刻版クリスマスイベント(3代目はオルタちゃん)が開催していた。僕は開化丼という、衣の付いてないカツ丼のようなものを食べた。仙石はカレーを食べていたと思う。

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開化丼

 

住宅地図を眺めて、何か面白いものはないか探した。

  • かつて金沢川があったあたりの下流を見る
  • 大崎のあたりに「金沢橋」というのを発見

ここで思考がはじけるような感覚があった、なぜなら

  1. 今までいろんな橋を渡ったことがあるが、橋には名前と完成日が刻まれてることが多い
  2. 橋の名前はなぜか漢字で書かれると同時にひらがなでも表記されてることが多い
  3. 「金沢橋」にいけば「金沢」の読みがわかる

強い興奮が起こり、橋へむかう

 

結果

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 かなさわはし

と書かれていた(新説)

 

ただ、この橋の文字は色々怪しいところがあり、例えば

  • 前橋市へ125粁」「沼田町へ200粁」と書かれている
  • まず刻み込まれた溝あり、そこに黒で字を塗っている
  • 粁はキロメートルの意味   米(メートル)が千で1000m=1km
  • 実際には前橋市までは約12km、沼田へは20kmくらい
  • よく見ると  12.5粁  20.0粁と 小数点が彫られているような跡がある
  • しかし点は塗られてないため、沼田まで200kmとなっている(この地点から北に200km行くと新潟駅に着く)

 

「かなさわはし」と書かれてるところはどうか

  • 「さ」の部分に刻まれた濁点は見当たらない
  • 「は」の部分にも刻まれた濁点は見当たらない

  • 濁点を塗り損じてる訳ではなさそう
  • 「かなさわはし」は合ってる
  • では川の名前は「カナサワ」だった?

 

多分川の名前は「金沢川」で合ってる

ただ、読み方は

  1. 渋川市誌をもとに考えるならカナザワ
  2. 橋の表記をもとに考えるならカナサワ

と考えるようにした

 

そもそも漢字の読み方、川の名前はどの時点で正式になるのだろう

何を確たる歴史として記すことが出来るのか、僕はそういう感覚がうまくつかめないでいる

 

入沢で見た城址碑について

2017年6月 渋川市入沢を訪れた僕は「渋川城址」と刻まれた碑を見つける 中の沢川を吸収した黒沢川が今度は平沢川と交わろうとしている点を登ったあたり

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渋川城址と書いてある

 

裏に碑文あり

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碑文
本丸は延命寺平の東南三渓が交わる台地で南に中丿沢の谷間、北は砂居沢の深渕、西は山腹を為す自然の要害で 鎌倉時代、渋川源氏の祖 足利義顕が渋川保を領し築城したと往古から伝えている(空白)天文十三年三月豪族入沢氏が信州から移住して本丸跡に館を築き入沢の地名を起した
弘治三年入沢氏は吾妻大戸城主より軍功により渋川の西部を拝領 元亀・天正年間に武田信玄 勝頼 二代の家臣となり仕える
天正末期入沢氏は故あって館を廃し慶長の初に帰農する
昭和五十三戊午年十月一日 入沢史跡保存会建之

 

メモ
昭和53(1978)年は戊午年(つちのえうまどし)

室町時代 1336〜1573
足利義顕は渋川に来て渋川義顕(しぶかわよしあき)を名乗った 渋川氏の初代 清和源氏の家系 鶴岡八幡宮の許可を得て渋川八幡宮設置に関与 生没年不詳 『吾妻鏡』では1245年の出来事に名が書かれている 父親が1216生まれなのでそれ以降に生まれたのはわかる
天文 1532〜55  天文13 1544
弘治 1555〜58 弘治3 1557

永禄 1558〜70
元亀 1570〜73
天正 1573〜93

安土桃山時代も1573スタート

文禄 1593〜1596

慶長 1596〜1615

 

延命寺平→城址碑があった道の入り口に 林道 上平(うえのだいら)線 起点 という看板あり

 林道沿いには真光寺 上ノ平霊園 もある

渋川市誌 民俗編によると上平の古い呼び名に「延命寺平」「寺山」「城山」とある

中村に「延命寺」はあるけれど碑とかなり離れている  関係は不明


渋川義顕 よしあき
②義春 よしはる
③貞頼 さだより
④義季 よしすえ 1314〜1335
⑤直頼 ただより 1335〜1356
⑥義行 よしゆき 1348〜1375

渋川氏は
義行のあたりから九州方面へ行く 広島にも岡山にも渋川公園がある 岡山には渋川海岸などもある 義行が備中(岡山西部)、備後(広島東部)の守護をしていたからだろうか

 

http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-427.html

↑長野県佐久市入澤にある入沢城についての記事を参考にしました

こちらの記事によると天文7年(1538)に入沢城をおさめる人達が入沢氏から大井氏に代わったという

記事末に参考文献:「信州の山城と館① 佐久編 宮坂武男著」 とあり

 

長野県立図書館に入沢氏についての資料がないか聞いたところ、レファレンス担当者様から手紙をいただいた

手紙によると『一つの土器片から』という本に次のことが書かれているという

・『青沼の自然と歴史』 に天文9年(1540)武田信玄が佐久に攻め込んだ時、月夜平や入沢城において入沢時広は武田軍と戦ったが敗れて一部は上州渋谷(原文ママ おそらく渋川)へ、一部は村上義清の軍に属してこの世を去った とある

渋川市入沢の入沢家所蔵の家系図からは、武田氏が入沢城を落とした天文9年には入沢氏は入沢城におらず、現在の上田市戸石城にいたと判断できる

・入沢氏は代々村上氏に従ってきたようだが、天文13年(1544)に第10代時広が上杉との密事が露顕し越後へ落ち、息子である 11代時吉が渋川へ逃れた

 

 

 

「渋川城址」とあるが僕が真光寺住職から聞いた話では、「渋川城」というのは寄居町の正蓮寺(通称ぼたん寺)の位置にかつてあった出城のこと(こちらを寄居城と呼ぶ場合もある)

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2017 8月に正蓮寺で撮った写真

 

 

情報まとめ


1230〜ごろ 鎌倉時代渋川義顕が今の入沢のあたりに城を築く

1350ごろ 渋川氏、岡山〜広島〜九州の方にいく おそらくこのあたりで城を放置

1538 長野県佐久市入澤の入沢城をおさめる人たちが入沢氏から大井氏にかわる

1540 武田信玄が佐久を攻め入沢時広は敗ける or この時入沢時広は上田の戸石城にいる

1544年 入沢時広は上杉氏の密事が露顕し越後へ逃げ去る  息子時吉が渋川へ逃げる

同3月 「信州から移住してきた入沢氏」が渋川義顕の城跡をつかって館を建てる この辺りの土地が入沢という名前になる

1577 入沢氏、吾妻大戸城の主から渋川西部をもらう

1570〜93ごろ 入沢氏、武田信玄・勝頼に部下として仕える(勝頼は1582没)

1590〜93あたり 入沢氏、なにか理由があって館をしまう

1593〜96  なぞ

1596 入沢氏、武士をやめ農民になる

 

 

 

 おまけ(道路ではなく土を踏んで行く方法)

・あじさい公園に入り小野池の位置まで上る

・池を見て右に進む林道を上る(平沢川を遡るような方向になる)

・林を抜け黒沢川にかかる小さな橋を渡る

・暗くて石垣がある方の道へ進む(林道上平線)

・酒のケースが多く積まれている辺りに碑がある

豚ヒレブロックとフジッリ

豚ヒレ肉 1.3kg 

グラム98円、真空パックされてるのでそのまま低温調理につかえる

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ヒレ肉が置いてあるのが珍しいのか、自分がヒレ肉と遭遇する確率が低いのか、普段あまり見かけない

 

http://negineesan.hatenablog.com/entry/2013/11/16/125835

こちらを参考にしました いつも楽しく読んでます

 

 

衣装ケースを使って加熱できるか試し

24LいれてやっとAnovaのMINを越える(Anova1台だと対応範囲19Lまでなので、この時点でダメ)

20:48 13.1℃
21:56 25.2℃

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位置を変えてふたをする

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22:48 39.1℃

遅すぎてこれではいかん


給湯器の設定75℃ にしたけどなぜか49.6℃ しかいかず 悲しい気持ちになりツイッターなどをやる

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沸騰したお湯 0.8L足しても 1〜2℃ずつしかあがらない 絶望 ささいなことで絶望してしまう

 

諦めて鍋
4.5Lで肉も浸り、AnovaのMINに至る(肉の体積があるので水は3.2Lくらい)

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無難に63℃     2H

待ってる間にプッタネスカソースにスパゲティではなくフジッリをいれる実験を

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フジッリはfusilli という綴りで、「フジリリ」の1個目リを舌離さず読む感じだと思います

語源はライフルの砲身の螺旋状の溝のことらしい

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虫に似てる

アンチョビがなかったのでツナ缶一つと粉末だしをいれたら、これはこれでいける

フジッリはソースが絡みやすく、ペンネと違ってしなるので、箸でつまめる & スプーンですくえる→つまみに向いてる

 

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2h経った肉

真空パックがパンパンになったので血や肉汁を出すためにパックを切り

置く場所がないのでフライパンへ(今回表面は焼いてないので フライパンはただの皿)

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赤い(血が)

 

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二つだったと判明

 

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半分は保存 あったかい

 

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伝承に習ってからし醤油につけて食べると、旨くて視界が明るくなった

中まで熱が入ってるし、歯ごたえが楽しい

よかった

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下味なしだったけど平気でした

以上です